ハイスクール!奇面組

最終回考察


新沢基栄/集英社ジャンプコミックス/全20巻


当時物議を醸し出した最終回に対する、私なりの解釈を述べたいと思います。
おそらくは新沢先生の考えとは大きく異なる点もあるかもしれませんが。

この頃の奇面組はハッキリ言ってボロボロでした。
同じ設定の使い回しによるネタの枯渇、アニメ化によるネタの食いつぶし、
新沢先生の腰痛の悪化など、もはや満身創痍の状態にある事は明らかで
あまりの痛々しさに、当時の私は「お願いだから早く終わって欲しい。」と
イヤミではなくそう思っていました。

そして確か、腰痛の悪化による休載の後に最終回の3部作が発表されました。
もう零くん達は、キラークイーンのスタンドを仕掛けられた早人クンのように
同じ所をグルグル回る必要はないのです。
私はうれしい反面、待ち望んでいたクセに悲しくもあり、この時のジャンプが
出た日は(3回とも)30分ごとにジャンプを読み返したりして、奇面組以外の
事は全く手に付かない状態でした
(奇面組の事で頭がいっぱいなだけで、ちゃんと正気は保ってましたけど)。

で、最終回の内容はと言うと、奇面組には珍しいシリアスな引きから
やっぱりね。の大円談で終わるかと思いきや、なんと唯ちゃんの夢オチ!
みんなの鼻つまみ者のハズが、なぜかみんなの人気者で終わったアニメ
とは正反対の展開でした(厳密にはアニメの方が少し後だったかな?
それから、どちらもフィクション扱いと言う点では一致してます)。

・・・たぶんファンからは一番の反感を買う終わり方だったのではないかと
思います。しかし、そこまでして丸出しにしたかった作者の主張とは一体
何だったのでしょうか。

ここで思い出されるのは、コミックスの中で作者自身が述べていた「自分の
性格を切り売りしているみたいなもの」と言う発言です。
この発言は、マンガの作中に自分の性格の一部を誇張した分身の様なもの
が存在している事を示しています。

例えば、プロレス好きな自分(プロレスネタで1本描いてます)、
乙女チックな自分(たまに少女漫画ネタが出てくる辺り、結構読んでそう)、
すけべえな自分(なぜか唯ちゃんに背中の大きく開いた水着を好んで着せる
あたり、かなりのムッツリすけべえだと思います)、
グータラな自分(最初の頃、布団やコタツでマンガを描いていた辺りが特に)
・・・といった感じに。

唯ちゃんの場合は、おそらく「おもしろそうな事が好きな自分」です。
奇面組の連載が始まる当初新沢先生が、まだ決まってもないのに連載用の
ネームやカットを用意してしまったエピソードから推測すると、「マンガ」が
「おもしろそうな事」として当時の先生の目には写っていたと思われます。
だから最終回では「おもしろそうな事=マンガが好きな自分」としての役割が
唯ちゃんに与えられたのではないでしょうか。

ジャンプの連載が終わった時点で、唯ちゃん(=新沢先生)が描いた奇面組の
物語は姿を消しています(最近、復活しましたが)。
けれども、ラストシーンは明らかに連載第1回目とつながっています。
その先に何があるかは(連載当時は)明らかにされていませんが。

この描写が意味する所は、「続きは君たちが決めな。でも奇面組じゃないかも
知れないぜ。」とでもいった意思表示ではないでしょうか。
同人で奇面組を作るも良し、奇面組じゃないマンガを描くも良し、マンガじゃなく
てもとにかく何かをやりとげればそれで良し、といった感じのアジテーションでは
なかったのかと、私はそう考えるのですが。



ついでに、上の文中でアニメ化に対して否定的な表現がありますが、
私はアニメそのものについては決して嫌いではありません。
むしろ、奇面組がギャグ漫画ではなくギャグのフリをした「青春漫画」
である事を理解し、毎週使われる主題歌の中に鮮やかに表現して
見せた手腕は賞賛に値すると思っています。



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